【勉強】頑張れない人へ

この記事は一般的に大学受験を控えた受験生向けのものである。

もちろん、大学受験に限らず、できれば勉強が嫌いなすべての人にも読んでいただきたい。

 

 

テーマはずばり、「努力」

 

「努力がすべてだ、やるだけやれ」とか、「一日〇〇時間やれ」、「〇〇を10周しろ」なんていう価値のない命令文の序列を綴るつもりは全くないので、リラックスして聞いていただきたい。

 

1,タスクを押し付けられた受験勉強

「努力」

私は高校生の頃この使い古された言葉に飽き飽きしていた。

自称進学校だったこともあり、受験勉強は徹底的に詰め込む、量が第一という風潮があった。

先生方も成績が伸び悩む生徒たちは(先生方の基準であれば、おそらく全生徒の2/3以上がこれに該当していたと思われる)概して勉強の絶対量が足りないとばかり言っていた。私もこの生徒たちの一人として認識されていただろう。

 

 

もちろん、先生方は勉強法についてはしっかり教えてくれた。その点では感謝している。

でも、それはまさに冒頭で言ったような

「〇〇(参考書)を3年夏までに2周はやれ」とか、

「休日は最低△△時間勉強しろ」だとか、そんなことばかり。

 

残念ながら、どの参考書を使うべきかは、amazonのレビューで一目瞭然だし、「〇〇大合格者の平均勉強時間」みたいなWebページは沢山見つけられるはずだ。

 

もしかしたら、単にそれを調べる時間を省くというのが先生の目的だったのかもしれないが、結局私がこう申し上げているとおり、実際に調べて確認するひねくれ者もいる。

 

みんなやったら受かるはずだし、だからこそ方法を提示しているのも分かる。しかし、受験の合否を分けるのは多くの場合、勉強法ではない。このご時世、勉強法なんてインターネット上にゴロゴロ転がっている。

 

もっとも根本的な問題は何をどれだけするかではなく、やるかどうかなのだ。

 

2,努力とは何か

 

では、やることは分かったとして、あなたは成績を上げるために、勉強ができる人と同じことをすればよいのか?

 

 

 

 

それは違う。だいたい我々は成績の良い人と違って問題をスムーズに解くことも、単語を効率よく記憶することもできない。

 

私もある種のコンプレックスに陥り、学年順位が毎回上位の者たちへと嫉妬心や壁のようなものを感じていた。

 

先生は勉強しろしろと言ってくるし、やらなきゃいけないのもわかる。

だけど、人はできないことはやりたがらない。

 

 

 

 

 

 

こればっかりはしょうがない。ゲームも勉強も運動もできなきゃつまらないじゃないか。

 

では、嫌いなことを辛抱強く続けることが真の「努力」なのか?

 

走るのが大の苦手の人が一日あたり10㎞走れば努力なのだろうか?

10kmより20㎞,20㎞より30㎞を走ることが努力なのだろうか?

だとすると、受験勉強はただの我慢比べになる

勉強が楽しくないと思う人は楽しくないことをどれだけやったかが進路につながるということになる

 

 

 

 

…それは違うんじゃないか?

努力と我慢は違う。

 

努力しろ と言われたら、がむしゃらにやれと言う意味ではない。

継続してタスクを積み重ねられる、意欲や信念を確立させ、実行しろということだ。

 

 

確かに、高校生の時点でその信念を見つけるのは難しい。

勉強なんてやらなきゃいけないことに決まってんだから、理由付けも何もないだろ、という人もいるし、将来の就職を考えても今勉強して大学に入った方がいいからだろという批判もある。

 

でも、それじゃ、我慢は努力に変わらない。

単調な教科書の活字の連続に何か価値を感じなければ、覚えたいことも覚えられない。

そして我慢は続かない。最後には自分は頭の良いやつらとは違って努力できないと思う。

 

 

 

 

そんなの努力じゃない。根本から間違っている。

努力をするには、この楽しくないタスクを何か自分が有意義だと思うよう変形しなければならない。

 

単純に面白いと思えれば努力しなくても難なく勉強できる。しかしそうもいかないだろう。そんな簡単に洗脳できる方法があればみんな勉強できるはずだ。

そうではなくて、何か別の方法はないか

 

 

これを私は大学生でようやく見つけた。スティーブジョブスの言葉だ。

youtu.be

かつてこの動画を見たことはあったが、大学生になってから知り合った方に

勉強は点を作る営みだと教わった。

その価値はいつ知り得るかわからない。

 

 

 

大学1年生の私には将来の目標もない。何の為に勉強しているかなんていまだにわからない。

それでもある程度の努力してきているつもりだ。人生のどこかで、今までたくさん打ってきた点のどれかがこれからの点と結ばれることを確信している。

 

 

これが私の信念。